言葉の純度にこだわりすぎた過去
こんにちは。石岡です。
今から10年くらい前の話ですが、自分の気持ち、心で思っていることを言葉で言い表すことにこだわりを持っていた時期がありました。
自分で思っている感覚的な部分が、どの言葉を使ってもしっくりこないのです。
100%は無理だということはわかっています。
ただ、それに近づけた表現をしたいと思っていたのです。
それを言葉の純度だと思っていました(自分で勝手に命名)
相手からどう思われるかよりも、自分の思いを純度の高い言葉で言いたい!
ただ、それだけです。
それが、自分の思っていることと、言葉がしっくりしない時は、とてもフラストレーションが溜まりました。
そして、例えば自分の思いを言葉で伝えた時に、相手が極端にその形を変えて受け取ってしまうことにも衝撃を受けるのです。
今は相手がどのように受け止めてもいいと思っています。
でも、その時の私はそれに対しても違和感を感じて言葉の純度を間違えていたのか、と考えるタイプでした。
受け止め方が私の思いと違うのであれば、それは私の心でも気持ちでも言葉でもない別物として考えてしまうのです。
そのため、自分が発する言葉っていったい何なんのだろう?という気持ちになり、別物として捉えられるのであれば、私は言葉を発したくないな、と思うようになりました。
伝えても伝わらないのは自分にとって、とても苦痛だったのです。
中途半端な伝わり方がなおさら嫌だった。
その為、一時期は自分の思いをあえて言わずに、心にぎゅっと留めておくということもありました。
ちょうど、その頃はストレスケアを学んでいた途中でした。
なんだかいろんな物が自然にはずれていきました。
なんだろうね、不思議だね。
その言葉の受け取り方が違ったとしても、私という人間が変わるわけではない、という安心感が湧いたのです。
他人からの評価が気になったのではないのです。
自分が自分へのこだわりが強すぎたんだな、と思います。
自分を認めることが私には必要だったと思います。
いつしか気づけば、自分に対してのこだわりが消えていて、どんな私だっていいと思えるようになりました。
言葉で伝えても伝えなくても、伝わらなくてもいいんじゃない?と、思えるようになりました。
自分に対する軸ができたのです。
そこには自分を信じるということも含まれています。
えへ、でも、今でも表現には結構こだわる自分がいて。
だけど、それもいいかな〜とも思うし、相手がどう受け止めても自由だし、自分の言葉の純度にこだわり過ぎることもないし。
全てのことが変化しながら時間が流れていることを考えると、気持ちも言葉も自分の決め込んだ型にはめなくてもいいと思える。
そんな石岡になりました。
なんかオチはありませんが、この辺で。
今日も読んで下さってありがとうございました。
石岡 友紀
シーユー💛
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